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dentpetal’s blog

はなびら葵 @hollyhockpetal の連続ツイート保管中心の備忘録です。

怒ることと個人の幸せと公正さとについてのあれこれ。

怒っているひとは不幸な人だって大雑把にまとめて名前をつけて、いいわけがない、と思う。それはつまり、「正当な怒り」だと認めてもらうために、まず、「幸せな私」であることを、怒りの中身を判別する人に向かって示さなければならなくなる。そうなったら、幸せなひとでさえ不幸にしてしまうよ。

どうすれば「正当な怒り」になるの。Facebookでキラキラしてればいいのか。正当な怒りかどうかは本人が幸せであることを証明してから、になっちゃったら、今幸せでただ楽しかった、って話をしても、「怒る人」が話してたら、「正当な怒り」を主張するためのアリバイ作りってことにするの?
そうやって考えていくと、「怒る人」に「幸不幸」を安易に接続することは、他人の行動を操ることでもあるとも、思う。

「怒る人は自分の生活に不満があるからだ」って、まとめて決めつけるのは怖いよ。じゃあその「不満のある人生」てどうやって決めるの。女性なら「結婚してて子供がいて」って条件、すぐ押し付けられるじゃない。社会で生きる女性は皆そのジャッジに、すぐ晒されるじゃないのさ。
女性だけじゃない。男の人だって、「いい年して結婚してない」ということでいろんなことを無効にする話はたくさんある。家庭周りのことだけじゃなくて、この話はあらゆる差別や見下しに使われる要因全てが当てはまって、「不満のある人生」という理由を作られてしまう。
こんなことは、本当に今更な話だと思うよ。

怒っている、その内容に対しても、共通してる言語を理解する努力は省いて、怒ってる人を1人定めて質問攻めにしてその都度定義しなおさせて、自分は労力を使わずに疲弊させて(説明は労力のいることです)、疲れた相手を勝手にその人の「幸せ」度合いとか関係ないことを持ち出した上でジャッジしたら。

そんなことをして「公平で聡明な部外者がよく話を聞いた上で判断しました」という体を取られたら。どんな問題もなかったことにできてしまうよ。「幸せ」と「怒り」の接続は、ケースを慎重に選ばないと、奴隷の叫びを主人が「解決」する、みたいなことになるんじゃないの。

じゃあ怒りの判別をどうやってするのかって、そこの公正さって何をもって探るのかってなるけど、私は科学の世界に間借りしているので、統計やら客観的数値やらとかにすぐ依存しようとしちゃうんだけども。それより前の段階の話として。

専門用語っていうのは、お互い全然別の立場や考え方をベースに生きている他者同士が、同じ問題を同じ深度で理解して解決に向かうことができるために、一方に負担をかけすぎないために、無駄な労力を省いて議論そのものと向き合えるために、定義を決めて共有する、公正さの模索手段じゃないのかなあ。

当事者でない問題にアクセスしようとする時に、専門用語への敬意を払う態度が見えない人は警戒されうると私が思うのは、そういうところこもなあと、思った。人の怒りを勝手にジャッジしない、人の問題を勝手に定義しない、公正さに繋がるのはそういうところにも共通するんじゃないのかなあ…。

ジャッジができる(くらい頭のいい人という自認がある)から公正なんじゃないよね。公正であろうとする手続きを間違えない人が公正らしさに近づきうるし、その判断が重んじられやすい、ってことなんじゃないのかな……。例えば、ジャッジをしようとする人がいて、その人が「自分は自分で十二分に正しいと自認している」と主張したとして。そのことは、何を担保しうるのかなあとは、思ったりも、する。

もちろんなんだけど、代償行為として全然関係ないところに怒りをぶつける人がいる、ことは否定しない。学校の保健体育ですら習った覚えがある。

でも、そのことを、部外者の立場から揉め事の現場にやってきて、その1点張りで網をかけて説明したら危ない。それは、謂れのない侮辱をされる人を作りかねないから、危ないことだと、思う。

2016年2月14日深夜の連続ツイートに加筆。

※追記※
椎名こゆりさんのツイートが胸を打ったので引用させて頂こうと思います。




2016年2月16日14:30追記